先日、電車の中で女子高生の二人組みの隣に座った時の話。
その二人の会話がまるで漫才のようでおどろいた。
具体的な内容はプライバシーに関わるので明かせないけど、
日常で起きた出来事をおもしろおかしそうに話していた。
彼女たちはまるでドラマの中の人物のように、
語り、聞き、ジェスチャーを交えながらコミュニケーションを取っていた。
話にストーリーがあって、フリがあってオチがある。
一瞬、カメラがどこかにあるのではないか、
と思うぐらいの饒舌さだった。
聞かせる相手はいないはずなのに、
誰かに聞かせているような会話。
ここで僕は思った。
見ず知らずの他人からみて面白い会話っておかしいのではないかと。
そもそも日常の会話を面白くする必要はないはずだ。
それなのに僕自身もそうだけど、
社会にいる多くの人が精一杯、会話しているのではないか。
面白くないと、何か悪いことをしたかのような気分になってしまう。
僕はこれを「主役化」していると言いたい。
「誰が聞いても面白い会話」を行わないと、我慢できないのだ。
自分の人生をドラマ的に捉えて、
現実において自分が主役となって活動する。
これが「主役化」だ。
もしくは カメラ=仮想の対象=客観的な視点 を意識しているといってもいい。
現代は主役化しないと、生き難い社会になっているのではないか。
うまく主役化できない人間は、
引きこもったりもしてしまうかもしれない。
いじめられてしまうかもしれない。
自分を主役化できる他の場所を求めてしまうかもしれない。
主役化している原因はどこにあるのか。
つづく。